こんにちは!アメリカの大学へ留学し、日本で数年働いたあと、ギリホリで渡豪🇦🇺オーストラリア暮らしも8年目に突入しました、Yukaです^^
実は最近になって、ASD 優位の ADHD という診断を受けました。そこで改めて振り返ってみると、英語圏と日本では “自分の特性との向き合い方” に大きなギャップがあることに気づきました。
今回の記事では、英語圏での経験と日本で感じたことを交えながら、「特性理解」の温度差についてお話ししていきます💡
英語圏と日本でここまで違う?—— ADHD・ASDの“診断名の普及度”と“自己理解”
診断名との“出会いかた”の差
私が初めて ADHD という言葉を耳にしたのは、アメリカの大学寮でした。
アメリカ人の男友だちが、何気なく
“I have ADHD, so …”
(僕ADHDだから、◯◯なんだよね!)
と言ったときでした。当時の私はその単語を知らなかったので、その友達が簡単に特徴を説明してくれて、へぇ〜!そうなんだね!ってくらいの、すごく軽いノリの中での会話でした。
軽いと言うのは、深刻な言い方ではなくて、「おれ、偏頭痛もちなのよ!」くらいのトーンという感覚、という意味です💡
しかも、その後も別のアメリカ人たちから「ADHD持ちであること」を聞くことが何度かあったので、
「アメリカ人の大半はADHDなのかな?」と、当時思ったほど、“よくある体質” という印象でした。
※ちなみに当時の日本では、「ADHD」という言葉を耳にしたことも、友達や周りの人からADHDやASDだと伝えられたこともなかったです💡
今になって振り返ってみると、西洋文化では「カウンセリングを受ける」「専門家のサポートを受ける」ことのハードルがめちゃくちゃ低いので、ちゃんと診断を受けて、“自分で自分の特性を理解している人が多い”ということだけなのかもしれないな、とも思います
自己理解・自己開示の深さの差
英語圏で暮らしていると、友人やクラスメイトが
“Because I have ADHD, I do 〇〇.”
ADHDだから、〇〇しちゃうんだよね。
こんな感じで、自分の特性をさらっと共有してくれます。もちろん深刻に悩んでる人だっていると思いますが、私が出会ってきたADHD持ちの友人たちは、その特性を個性の一部として気軽に話してる感覚でした。
現在住んでいるオーストラリアでも、まずは私のパートナーでオーストラリア人のトリちゃんが、幼少期にADD(現在で言うADHD)と診断されて薬も飲んでいたと言っていたこと。そして、今家族ぐるみで仲良くしているオージーたちの中でも身近に2人ADHDだと自覚して、公言してる友人がいます。
一方、日本では「私、ADHD(ASD)なんだよね」と公に語る人には、一度(ここ最近、2025年で初めて!)しか会ったことがないです。ちなみに、この唯一の人が、私が診断を受けようと行動を起こすきっかけとなった人でした✨
あとは幼なじみで親しい友人が「息子が ADHD かもしれなくて、カウンセリングに行ってこようと思ってる…」と相談してくれたとき。そして今思えば、その友人の相談口調はちょっぴり深刻で、ADHD気質の男の子のお母さんとして、かなり苦労したことも後に話してくれました。幼稚園や習いごとなどの集団生活の中で、周りと違うことを指摘されることが多く、当時はよく悩んだとのことでした。
▶︎私ももし日本で子育てしていたら、きっと彼女と同じように指摘されることが多く、もしかしたら悩んでいたのかもしれない、と感じます。実際に一時帰国している際に、やりづらさを感じたことがあったのですが、この点、オーストラリアという“子育てをする場所”にかなり助けられていると思います。ここに触れ始めるとまた止まらなくなるので・・・このトピックについては、また改めて記事を書きたいと思います!
このように「ADHD」とか「ASD」などと、”自分の特性を自覚している人”は、日本では少なく、英語圏での方がよっぽど多いなと感じます。
あとは面白いことに、「ADHDだから、〇〇なんだよね!」と話してくるのは、男性が多いです。というか、今振り返って考えてみても、9割以上男性だったかも??という印象です。女性は周りに合わせることができてしまうが故、そもそもこういった特性に気づかない、気づかれない、または気づくのが遅くなる傾向にあるようなので、もしかしたら英語圏でもそれが影響してるのかな?と思ったりもしました。
▶︎私自身も生まれて37年間、特性を知らずに生きてきましたしね!
仕事場でも感じる自己理解の差
過去の記事でも書かせてもらったように、私は今オーストラリアで、*NDISのサポートワーカーとして働いています
そこで、サポートが必要なクライアントと接していくわけですが、クライアントたちは、自分自身で自分のことをよくわかっており、何が足りないか?何が必要でこのサポートを利用しているか?をよくわかっているのです。
※NDISのサポートワークについてはこちらの記事をご参照ください
オーストラリアで仕事 — NDISサポートワーク
初めてサポートに入るときには、例えば
「私はこんな特性があって、○○の場面で困りやすいです。だから △△ してもらえると助かります。もし□□のようになったら、△△ するよう促してください。」
などど、クライアントは自分の特徴をしっかり言語化し、必要なサポートを具体的に伝えられるのです。こうやって自分の特徴をここまで言語化し、必要な支援を具体的に伝えられること、その姿勢や在り方に、毎回驚かされます。NDIS には、プラン目標を一緒に立ててくれる担当者がいるので、その制度の後押しももちろん大きいのですが、「まずは自分で自分をよく知る」 という土台がしっかりしているのが印象的で、関心させられます。
一見すると当たり前のプロセスのようですが、そもそも自分で自分の特性を認めて、サポートを受けるに至らない人がどれほどいるだろう??と思うと、自分で自分のことを理解して、受け入れるって、とても大事だなと思うのです。
まとめ
特性はレッテルやラベルではなく、自分の“取り扱い説明書”
英語圏に身を置いて実感したのは、
「ADHDだから〇〇なんだよね」「ASD気質で△△が苦手でさ」
そんなふうにサラッと話せる空気があるだけで、特性は“隠すべき弱点”ではなく、“自分も周りもラクに生きやすくなるカギ🔑”に変わる!!!ということです。
私自身も英語圏では、こうした特性が特別視されにくいからこそ、相手が英語ネイティブなら会話中に自分の特性を自然に話せるけど、日本育ちの人に伝えるとなると、一気にハードルが上がる感覚があります。(これは、良い悪いを伝えたいのではなく、ただそう感じるという体感です)たとえるなら、オーストラリア育ちの息子を連れて東京の公園や習いごとに行くときの緊張感みたいな…🫣
※「え、公園?」って思った方へ — これはまた別の記事でご紹介しますね
だからこそ思うのは・・・特性って、本来は“誰かに貼られるレッテル”または“自分で貼ってしまうレッテル”じゃなくて、“自分自身を活かすための取扱説明書”みたいな感覚で寄り添っていけたらいいのかもしれません
英語圏のようなラフなオープンネスな感覚を、ほんの少しでも取り入れられたら、または、自分の中でだけでも「これは私の個性」と軽やかに受けとめられたり、そんな個性を自分自身で“チャーミングな要素”のように感じることができれば、きっともっと、私たちは生きやすくなれるのかもしれません
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